昨夜に寝違えたせいで首周りがもう痛くて痛くてたまりません。
ということで、寝るのを諦め映画鑑賞を。深夜に見る映画っていいもんですね。
そこで私が観たのはゴダール監督の遺作である
The image book
でもなぜイメージの本という題名なのか最初に引っかかりました。なんでイメージの映画じゃないの
観終わったあとに思うにこれは20、21世紀のスクラップブックなのかもなぁなんてことを思ってしまいます。
スクラップブックを作ったことがある方には分かってもらえるかもしれませんが、
あれって雑誌や新聞やその他の印刷媒体からいろいろな記事やら写真やらを切り抜いて大切に保存するんですけど、久々に見直すと「なんだこれ?なんでこんなの切り抜いたんだっけ?」というようにそれらを切り抜いた理由や背後にあったはずの動機をすっかり忘れてしまったという経験が私にはあります。
写真や映像という媒体でも「なぜそれが撮られたのか」という映像外の大切な動機や理由は抜け落ちてしまっていることがあると思います。
例えば悲惨な報道写真や映像を見た際に「おお、かわいそうに」と思ってほしいから撮られているのかそれとも悲惨なことを繰り返してはいけないという警告なのか支援の訴えなのか。
おそらく写真家や映像の撮影者の方もなぜ撮ったのか分からないなんてことがあるかもしれない。
気づけばシャッターを押していたというようなことがあるかもしれない。
それらはなぜ撮られたのかという事を知る術は消えてしまい、私達は想像するしかないのです。
そしてその想像する他ない映像は20、21世紀を映し出している。
本作のウィキを読むとホロコースト、イスラエル・パレスチナ情勢、ISISに対する表明
映像制作者の責任 デジカメやスマホによる政治的議論の進歩などが主な主題のようです。
確かに五篇からなる本作は暴力の映像を多く使われています。
あまりにも膨大な映像の波の中で私達はそれらを見せつけられます。
それらは唐突にやってくる。暴力に前触れというものはないのです。
果てしない暴力、それに抗う人たち、思想のぶつかりあい、意味深な引用文
本作はこの連続で、ストーリーはありません。
でも記憶を辿ったときにそれらの記憶がストーリーを必ず持っているということはないのと同様に映像それ自体がストーリーを持つということはないのだとゴダール監督は言いたかったのかもしれません。
素材そのままを出して自分たちで味付けしろって言われてるような
そしてストーリーを作り出すのは映像制作者ですから私達が編集された映像を観ているとき、既にその映像の意味を知ることはできなくなってします。
制作者の手中の範囲でしか映像を解釈できません。
映像とは表象であり、それがイメージに繋がることの危うさを考えるべきなのかもしれません。これは映像だけでなく文章であったり絵画であったり本作で繰り返される”手で作られた物”全般に言えることだろうと思います。
デジカメやiphoneによる政治的言説の進歩は正直どういうことか分かりませんでした。
そこまで頭が回らなかった・・・
しかし後半になるにつれ欧米からだんだんと中東へと言及されていきます。
ここでめちゃくちゃヴィヴィッドなエフェクトで流れる映像は本当に美しいです。
癒やされました。めちゃくちゃ難解ですけどこのためだけも観る価値ありです。
とはいえこれが遺作になるってゴダール監督かっこいいです。