大学のレポートのようなタイトルですが、今回はかなりお硬い内容なのでこうなりました。
久しぶりにカーソルの知の欺瞞を読んでいます。
今回取り上げられるのはジュリア・クリステヴァというポストモダニスト。
詩の言語の研究になぜか集合論を持ち出します。
どうやら集合論により理論化できるかもしれないそうですが、なぜそう思ったのかの説明はなく後々集合論はメタファーであると説明したそうです。
詩の言語と集合論の関係はどのようなものなのか?
まず詩的言語と詩的論理という2つの概念が出てきます。
1.詩的言語とは
現行の論理的説明では、その意味が変わってしまう。だから詩的論理を作らないといけない
2.詩的論理
文学記号論からこの論理は作らないといけない
そして詩的論理には0-2の連続の濃度が0と2を包み含んでいる。
詩的言語についてはまだ何言ってるかわかりますが、詩的論理は意味不明です。
連続の濃度がなんであるのか分からないとどうやら分かりそうにありません。
なのでネットや図書館で集合論を調べてきました。
以下は備忘録としてあってるかどうか分からない集合論の説明です。
・集合論とは
対角線論法により彼は大きい無限と小さい無限があることを発見しました。
集合ごとの無限の大きさを考えて比べてみたり調べてみたりなかなか面白そうな分野ですが本当に難しいので頭が痛くなります。
私も調べている間、前頭葉が痛くなりました。
ざっくり無限がみっちりしてるかスカスカかなのか調べてみるというくらいに解釈しました。
・濃度(または基数)とは
集合の要素の個数です。
例えばMondayというアルファベットの文字列は濃度6、月曜日という漢字の文字列の濃度は3
これをどうやって数えたかというと月ー1 曜ー2 日ー3と文字列と数字が一対一対応の関係が成立するので数えることができました。
が2つの集合であるとして、の元と の元が一対一対応の関係にあるのなら、 はと同じ濃度を持つことになります。
有限集合なら濃度は有限個しかありません。
・有限集合の場合
有限の自然数と偶数を一対一対応させていくと、自然数のほうが偶数よりみっちり詰まっていることが分かります。偶数は自然数に含まれているので当たり前といえば当たり前なのですが、という関係です。
有限集合のとき、全体は部分よりも大きいという公理により、このようなことになりました。
ですが無限集合ではこの公理が成り立ちません!!!!
・無限集合の場合
自然数の無限集合の濃度はと定めます。
集合の濃度を測るにはどうやらこれが基準になるようで、可算濃度とも呼ばれが最小の無限です。
偶数の全体の無限集合の濃度はとなり、なんと自然数の無限集合と同じになります。
偶数は自然数の含まれているのに、無限集合だと公理が破綻してしまいました。
それでは有理数ではどうなるのか?
これもになります
自然数より明らかにみっちり詰まってそうな有理数もこうなってくると全部じゃないのかと思うのですが、実はそうではありません。
実数の集合の濃度は自然数よりみっちりしています。
実数の集合の濃度はよりも大きいです。
そしてこのが連続体濃度であり、と書いたりもするようです。
連続の濃度はということになります。
詳しい説明はウィキにてお願いします。
このをとしたときにが可算無限の次に大きい無限なのかどうか解明してみようというのが連続体仮説とよばれる超難問のようです。
そして実数全体の集合とある区間(例えば0から2のように)に含まれる実数の集合は一対一対応関係にあります。
ということは濃度も同じということに・・・
無限集合やばいです。
連続の濃度の概略を知るだけで大学の小レポートのようになってしまいました。
調べたのですがクリステヴァがいう0-2がなんなのか分からないということが分かりました。
集合{0,2}なら有限集合なり、区間[0,2]であれば無限集合になり連続の濃度をもちます。
そこのところは言及されていません。一番大切なところなのに
クリステヴァがどのような意見を持っていたかは本書に記されています。
ですがこんな意味の分からない比喩を使う必要性が全く分からないということはたしかです。
結局詩的論理ってなんなんだ?
サイエンスウォーズの物語はまだ続きそうです。