アンドレイ・タルコフスキー監督作の『サクリファイス』を観ました。
スウェーデンの孤島にて核のカタストロフィに直面した人々を描いた作品です。
神への祈りや救済といった主題を元舞台俳優のアレクサンドルと彼の家族や友人を介して表現されています。
スウェーデンの孤島にて一同は核戦争が勃発したニュースを知り皆が絶望する中で、アレクサンドルは神へ祈りを捧げます。
翌朝、核戦争のニュースが嘘であったかのように辺りは静寂に包まれ、アレクサンドルは神への祈りで交えた犠牲を払うことを決めるのです。
その犠牲は家の焼失と誰とも口を聞かない。
『ノスタルジア』にてゴンチャロフが祈りのためにロウソクの小さな火を灯しますが、『サクリファイス』のアレクサンドルはより大きな規模で火を取り扱っています。
これはもしかして祈りの規模を示唆しているのかもしれません。
家を燃やしてしまう行為は何を意味しているのか。
人々にとっての家とは憩いの場であり、誰もが自宅に帰ればほっとする安住の地でもあると思います。
そしてそれに呼応するように家は外装、内装、間取り、インテリア、家電等々と文明の発展に伴いより快適に進歩しただの居住空間だけではない付加価値も発生しています。
住居はステータスとなり現代人のマテリアル信仰に対する特権的なシンボルだと思います。
そのシンボルをアレクサンドルは燃やしてしまったのです。
家に火が放たれるも隣に生い茂る松の雑木林は葉が風に揺られ、延焼を免れている。
片方では人間が自然から編み出した人工物が燃え、その傍らに悠然と佇む様子はキリスト教徒ではない私は神即自然を想起されます。
アレクサンドルの行動は自然に戻り根無し草のようになり神を敬わなければならないと語っているようにも思います。
ただ彼はそれを語りません。
美辞麗句を並べ語ったところで人々が神へ祈りを捧げることに期待はできないと察し、行動によって自らの啓示を表現しているようでもあります。
しかし彼の行動も虚しく、最後に彼は救急車で運ばれてしまいます。
もしかしたら行き先は精神科病棟だとしたら、彼は不幸ながら現代に生まれてしまった使徒だったのかもしれません。
しかし、そんな彼なき後に彼の息子は枯れた木に三年間水をやり花を咲かせるという父親からの言いつけを守りながら父の帰りを待つように枯れた木を眺めています。
このように子々孫々へ語り継ぎながら神のもとに帰ればいいと物語っているようで前向きなラストでした。
それにしてもこれが遺作になってしまうのはちょっと完璧すぎる気がしてしまいます