普段生きていて、死体というものを見ることは現代社会では滅多にないことです。
私は一度だけロードキルに遭った鹿の死体を見たことがあります。
轢死体となった鹿は下腹部が破れ内臓が一筋の連なりとなり路上に投げ出され路肩は一面が血に染まっており、私は道路緊急ダイヤルに通報するのをしばし忘れてしまうほど魅入ってしまいました。
死体には何か不思議な魅力があるようで、もし人間の死体が目の前に存在したら不謹慎ですが鹿とは比べようにもならないほど私は魅入ると思います。
今作では医学部附属病院解剖室の解剖用死体処理のアルバイトに就いた仏文学科の僕を巡る物語です。
浴槽には解剖用としては不要になった死体達が敷き詰められ、そこには〈物〉と化した死体達が僕を見つめています。
死んだ人間を処理する生きている人間という状況は「浴槽に浮かぶ人間が死んでいる」という意識に対して「浴槽に浮かぶ人間を処理する人間は生きている」という関係性が浮かび上がります。
解剖室の管理人はその死体たちを処理する仕事に何十年も就き、そしてその解剖用死体に防腐処理を施す医学部の助教授や医学生たちが腐りゆく死体をそうならないよう選択し、死体が浴槽に浮かんでいます。
「浴槽に浮かんだ人間は死体である」と浴槽に浮かぶ人間が死んでいるという本質はあれど、「浴槽に浮かんだ人間は・・・である」という実存はどうなるのかと人間において実存は本質に先立つという実存主義の教義に対する省察を投げかける本作は難解です。
与えられた環境の中で人間は仮説の中からいくつかを選択し、選んだものが自身の本質を知るとすれば死体は間違いなく本質を知りません。
ただ死体は物言わず受け入れる、その状況の中に僕は実存している。
そんな矛盾と葛藤する僕の姿も印象深い作品です。