ののの・ド・メモワール

その日観た映画や本や音楽の感想を綴ったりしています

閲覧いただきありがとうございます。
日記のように色々なこと(主に読書、映画、音楽)のアウトプットをしていきたいと思います。まれに雑記も書きます。
実用的なことは書けませんがよろしくおねがいします

『Untitled fall '95』

 美術学校の学生のビデオメッセージと寸劇が交互に映されるアレックス・バグ(Alex Bag)の作品です。

作品の被写体はアレックス・バグ本人で、彼女以外に登場するのはキティちゃんや心肺蘇生人形などです。

軽佻浮薄なマスメディアとそれに影響される人を皮肉ったような作品なので、バグ本人の意図からか観ていても大して面白くありません。

学生のビデオメッセージも冷笑的にだらだらと学生生活を語っているだけで、やっぱりつまらない。

寸劇もコマーシャルのようで、うさぎのぬいぐるみ達とビニール人形のおままごとやビョークがテレビがどうやって映るかを説明する様子を見ているアレックス・バグが映っています。

今作はテレビを見る行為や誰かを演じるロールプレイも大切なテーマになっています。

自分以外の誰かになりたい願望がテレビに登場する様々な姿で現れて、それを消費していく。

そして結果的に自分たちが消費社会の中で人生を消費し、それをどう受け入れているかが現れ、そこには能動的ではなく何かを受動的に体験することで気分を紛らわす慢性的な倦怠感が作品全体に漂っています。

 

 

 

なにかを書かねば 玄関を出て 傘を指して

 なにも書くことがないので、ぼーっとしていたらブログの更新がこうなっていました。

そういうわけで私は約一ヶ月前に行われたワールドカップを観戦しているときに、そういえば今年でスマホなどのデジタルデバイス依存から脱して数年経ったのだと思い出し感慨に耽っています。

こうなると体や心には大きな変化が発生し、私は朝にやっている情報バラエティを偶発的に見たら情報過多ぶりと喧騒さに本当に耐えられなくなります。

 どうしてこうなったか。ドパガキ仕様なのでしょうか?

残念ながらドパガキはテレビなんかよりショート動画を観ているわけです。

そして肝心の放送内容もぶっちゃけショート動画を薄めたようなクオリティ。

これでよくSNSを敵視できるものです。

SNSも言語媒体型のものは偉そうに詭弁を垂れ流してるものがあまりにも多くてびっくりしています。 

こんなものを四六時中見ていたら頭がおかしくなる。

それに比べ、ショート動画は動物やスポーツのスーパープレイ集が流れてくるので人々がこちらに流れるのも無理はありません。

話題をテレビに戻すと都内のスイーツがどうのなんぞという情報の裏でガザやイランやウクライナの市民が亡くなっている。

それとも朝からそんな暗いニュースは流してはいけない放送コードがあるのか気になります。

以前から情報バラエティがあんなにテンションが高かったのか気になるわけですが、東京に住む人はこんなもんを見た後にあの殺人的な満員電車で通勤通学せねばならないのかと思うと本当に敬意しかありません。

これらを耐え抜いてやっと仕事や勉強が始まると考えると、私がそんな生活をしたら発狂します。

これで自発的にSNSをやっていたら、心労がカンストしてしまいそうです。

こうなった場合にどこか一人でゆっくりなりたいと思うわけですが、東京でそのような場所があるのか気になります。

どうしてこんなに東京について気にしているかというと、上京した友人に会ったら大体目に覇気がないことを突然思い出しました。

そして私は今、東京にいます。

 

 

良作B級映画『蜂女の恐怖』

The wasp woman

 ロジャー・コーマン監督作の『蜂女の恐怖』を観ました。

化粧品メーカーの女性社長・ジョイスが怪しい研究者・ジントロップ博士が持ち込んできた若返りのローヤルゼリーの副作用により蜂の怪物になるというストーリーです。

 なにかに取り憑かれた人が過剰な行動に出た末に暴走する様式美を踏襲した約70分程のホラー佳作です。

監督はB級映画の帝王ことロジャー・コーマン、1959年制作の作品です。

今作は蜂女のデザインが秀逸で、これが白黒の画面の中で映えています。

ジョイスが勤務後も社内の実験室に残り、必死にローヤルゼリーを探していると物音を聞いて扉を開いた警備員に襲いかかるシーンに含まれる蜂女に変身しているジョイスが振り返るショットなどはエッジが効いており、特に影が効果的に蜂女を際立たせています。

 音楽や音響もセンスがよく、時折流れるBGMはなんとジャズです。

そして音で驚かせてくるようなジャンプスケアもない親切設計ときます。

普通、動物実験の事後経過を観察してから人体に投与すべきだろうという常識が介入する隙を見せない刹那の中で展開される作品でした。

 

パリの古書店で・・・『静かな二人』

Drôles d'oiseaux

 エリーズ・ジラール監督作の『静かな二人』を観ました。

田舎に耐えられなくなったマヴィはカモメが降ってくる街・パリへ、彼女は古書店で働くようになると店主のジョルジュに段々と惹かれていくというストーリーです。

 上映時間は約70分と短く、撮影監督は巨匠のレナート・ベルタが務めています。

彼のカメラワークを堪能したかったので上映時間がもっと長かったら嬉しい作品でした。

個人的には2時間半くらい上映時間があれば、今作の魅力は上がっていたと思います。

室内、古書店内、車内などのシーンは印象的であるのに対して、ドライブで眺望スポットへ行きパリを一望する二人を映したショットやマヴィがパリの何気ない通りを歩く様子を映したシーンはいまいち印象に残りません。

 マヴィとジョルジュは親子ほどの年齢差があり、ちなみにマヴィが若い女性でジョルジュが初老の男性です。

そんな二人が「私がもっとおばあちゃんだったら・・・」や「夢に君が現れた。僕は若くなって君に会う。」のようなことを話す二人の会話に沿ってパリの風景がインサートされます。

愛と芸術の都・パリ、田舎から出てきた若い女性、謎多いあしながおじさん風な年上男性に出会って、性に奔放な画家の友達にうんざりして、カフェでノートを開いて何か書いたり辛いと映画館へ行く。

このように今作はフランス映画のスターターセットのような要素が集まってできています。

これがマルセル・カルネやルネ・クレールから続く日本のフランス映画配給の伝統のように思います。

 今作の一風変わっているところは謎多い紳士なジョルジュが極左テロリストグループ「赤い旅団」で活動していた活動家であったことをさらっと発覚するところです。

この事実に接してもマヴィは顔色一つ変えずに事を受け止めています。

以上のよく分からないエピソードよりも私はカモメが方向不能に陥り墜落してくるパリの事件に興味を持っていました。

カモメの生体磁気システムに障害が発生しているのは太陽フレアかなにかが発生でもしているのかと思っていましたが、ジョルジュがマヴィの元から姿を消してしまってからカモメたちは正常になります。

カモメはSF的ガジェットではなくマヴィの心情を詩的に表現する装置として登場していました。

 今作では今では珍しいアイリス・インアウトが使用されていて驚きましたが、どういった効果を生み出しているのかはよくわかりませんでした。

いかにもフランス映画な佳作でした。

 

消費される人々『90年代サブカルの呪い』

『90年代サブカルの呪い』/ ロマン優光 2019

 将棋やチェスで最も価値が低い駒(歩、ポーン)をぞんざいに扱うプレイヤーは余程の戦術や戦略がない限り勝手に自滅し詰んでしまう可能性があります。

歩が飛車先を突けるのは飛車が守っているからであり、ポーンがクイーン先を突けるのはクイーンが守っているからです。

このように最も弱い駒は同等の駒や強力な駒で防衛しながら相手陣に攻めていくものです。

後期の鬼畜系サブカルでは世の中のアウトサイダーたちを駒として扱い、彼らを利用する発信者たちはその駒たちを防衛する義務を捨てて盤外から眺めるようになります。

初期の鬼畜系は自分たちが盤の上で駒となり、対戦する相手は社会の良識でした。

そんな駒たちがスタンドプレイを行い、ある時は好手を指したりとしていましたが、個々の駒がそれぞれ動いていると大悪手が発生します。

その一つが神戸連続児童殺傷事件であり、ここで一気に風向きが変わります。

自分たちの悪ふざけを真剣に受け取るとんでもない奴がいることを思い知らされた作家たちは投了やリサインしなければなりませんでした。

 しかし、ここで奥崎謙三という最も強い駒が登場します。

彼は将棋でいえば角行や飛車、チェスでいえばルークやクイーンのような盤上でゲームを左右するような圧巻のパフォーマンスを繰り広げます。

奥崎謙三は殺人未遂で服役した刑期を終えて出所するころには鬼畜系は社会の良識に対して完全に劣勢です。

そんなことは作家や消費者も分かっているものの最後の悪あがきのように奥崎は駒としてはタダ取りの動きをさせます。

鬼畜系の担い手たちは投了したも同然のゲームを続行し、奥崎は鬼畜系ブームが下火となった1998年に公開された『神様に愛い奴』という密着ドキュメンタリーで制御不能になりました。

奥崎謙三は一旦アナーキストに切り替わると何をやるか分からない底知れぬ恐ろしさを持った人物です。

彼に密着した1987年公開の『ゆきゆきて、神軍』では最後に殺人未遂を起こして、そのために服役していました。

制作者は奥崎をどこかで制御しなければなりませんでしたが、過激な人物の過激な行動が欲しいのでそのような措置は取られず、結果として妻を亡くした孤独な後期高齢者を面白半分でおもちゃにします。

 ここでインターネットに舞台が移り、鬼畜系のカウンターカルチャーとしての精神が反転し、世の中の常識や良識を盾にした普通圏内から普通という規範から外れる人間をいじめて楽しむネット文化が誕生していきます。

アウトサイダー側に立っていた当初の鬼畜系作家たちはこの変容に愕然とし、鬼畜系の主要なライターであった青山氏は自殺してしまい、同様に活躍していた村崎氏は自宅にて刺殺される凄惨な幕切れです。

鬼畜系カルチャーの教訓は表現の自由はどれくらい消費者の想像力を想定しなければならないかということだと思います。

世の中には冗談が通じない真面目一辺倒でプライドが高い人間がおり、その真面目さをあらぬ方向に誘導しプライドを維持させるようなコンテンツを作ってはなりません。

テレビやネット番組が法令遵守(コンプライアンス)を念頭に置いて制作されていった経緯にも影響を与えていそうです。

しかし、こういう人間はネットで他人を嘲笑することに悦びを見出している。

そこにはカウンターカルチャーとしての鬼畜系文化の影響は何も残っていません。

 

 

 

 

暴走するサブカル『90年代サブカルの呪い』

 『90年代サブカルの呪い』(ロマン優光/2019)を読みました。

悪趣味/鬼畜系に焦点を当てた本著では、その功罪を述べられていきます。

鬼畜系とは悪趣味系のサブジャンルで、扱う内容は反社会性や犯罪性をポップに扱う露悪趣味、死体、人体改造、ヤク中、ドラッグ、変態などなど様々です。

悪趣味系はもっと広範にヘンテコな映画や音楽からマイナーな漫画に奇祭や奇人変人なども取り上げるので結構重複している部分もあるものの明確に区別する境界はあやふやです。

悪趣味系の中でも特に反道徳的で犯罪性が強いジャンルが鬼畜系であるといってもいいように思われます。

 これら悪趣味/鬼畜系は90年代という豊かな社会と綺麗事が蔓延るメディアに対するカウンターカルチャーであり、95年から97年にピークに達したときに神戸児童連続殺傷事件が発生し、それと共にインターネットが登場すると98年以降には廃れていきます。

それではどういう人々がこの鬼畜サブカルを楽しんでいたか。

都心で暮らし広告代理店やデザイン事務所に勤め、週末は湘南や九十九里浜でサーフィンを楽しんでいるような美男美女が主役のトレンディドラマなんぞ見たくない。

かといって、「ドゥルーズの差異とデリダの差延がどうのこうの。バルトのパロールとエクリチュールがなんとか。」などと語るためにはポストモダニズムの色々な本を読まないといけないので面倒くさい。

それでも何か普通の人間と自分は違うことを示す文化的アイコンを求めている少数の若者たちの前に死体を弄び障害者を侮辱する鬼畜系が現れ、彼らは飛びつきます。

90年代はまだ普通と異なると判断された人々に対する人権意識は低かったようなので、鬼畜系は支持者のニーズに合わせるために過激になっていく。

 鬼畜系の大きな過ちは発信者の想像力が足りていなかったことです。

当初は自分の変態嗜好やドラッグ体験を語る程度であった鬼畜系が次第に障害者や精神病者を嘲り笑う手法が氾濫したり、弱い者いじめを行い喜び自身の犯罪行為を告白したりと完全に無法地帯となっていきます。

とりわけ障害者や精神病者に対する苛烈ないじめを面白可笑しく消費する様子は気分が悪くなり、これを本当にエンタメとして楽しめていたのかと私は思います。

不謹慎なブラックジョークが好きな私ですら拒絶反応を示してしまった原因は、それが生身の人間に行われているためであろうと思います。

こうなるとフィクションという安全圏から完全に逸脱しています。

そして普通とは違う世界を見せる鬼畜系に吸い寄せられた生きづらさを抱えた女性たちが鬼畜系コミュニティで搾取される様子はカルト教団のようです。

この本を読んだ理由である奥崎謙三については改めて書きます。

 

 

キャンプ場を作る作品『劇場版ゆるキャン△』

 京極義昭監督作の『ゆるキャン△』を観ました。

社会人になった志摩リンたちが廃れた自然センターを改装し、キャンプ場としてリニューアルするまでを描いた作品です。

 2年ほど前に今作を観たときは気づきませんでしたが、きらら系アニメのキャラクターの容姿造形には規格があるのかと思うほど描き方が似ています。

いろいろな作家が掲載している雑誌であるにもかかわらず、きららのブランドを保つのは並大抵のことではありません。

アニメの美少女は髪型以外は大抵同じ容姿ですが、きらら系では上まぶたの線で個性をつけています。

鼻と口がほぼ点なので、個性を付与するには目に注力するほかありません。

「なるほど。勉強になりました。」という気分です。

 今作はコロナ禍のキャンプブーム以前にアニメが放送されたことで、舞台となった山梨県は恩恵が得られたことと思います。

こうして20年代は『ゆるキャン△』の影響でキャンプに行き、『ぼざろ』の影響でギターを始める人々が増えていき、アニメの影響力は絶大です。

こうなってくると、美少女がなにかをすればブームが発生する法則があるようにさえ錯覚します。

美少女が社会奉仕活動を行うことでボランティアブームが発生すれば、素晴らしい世の中になります。

しかし、ここで「オタクの血なんかキモい!」という偏見、差別、侮蔑という感情を歪んだ正義感で覆い隠して暴れまわるソーシャル・ジャスティス・ウォリアーたちが起した「献血ポスター騒動」を忘れてはなりません。

医療現場でどれだけ輸血が必要とされているか理解もせずに行われた一件でアニメと社会奉仕を危うく断絶しかけたことは看過できません。

現在はさらにアンチAIという新興宗教も誕生し、スピリチュアリティやアウラを持たないと判断されている生成AI画像を糾弾する始末なので、こうなると気軽に二次創作を発表できません。

こうしてアニメの影響力が強まるにつれ、やばいやつに目をつけられていく。

 とはいえ、今作『ゆるキャン』も主人公たちが公共事業で無償奉仕させられ、やりがい搾取の被害を受けいているという批判があるようです。

たしかにそういう見方もあり、私も志摩リンたちがどうしてキャンプではなくキャンプ場を作っているのかとずっと疑問に思っています。

こんなことなら社会人という設定を活かしてヨセミテ国立公園にでも行ってキャンプすればよかった。