ののの・ド・メモワール

その日観た映画や本や音楽の感想を綴ったりしています

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巨人の肩の上に乗った気になって観る 『ゴダール革命』



説話論的という謎のワードが頻出しググってみてもよく分からず、とりあえずこのワードのことは保留し読み進めていくときっとナラティブみたいな意味なのだろうと独自解釈することにしました。

最近お茶漬けを食べていません『お茶漬けの味』 - ののの・ド・メモワール

 私は過去に蓮實重彦氏の『監督 小津安二郎』を読んでいる際に以上のように解釈していたわけですが、これはとんでもない思い違いであると今は考えています。

まず『監督 小津安二郎』で語られる説話論的な構造とは小津作品に対し家庭の崩壊を描いているや日本的美徳に満たされているあるいは禅の思想が宿っているといったある種の作られた小津像から構築される小津作品の解釈であるのに対し作品群に共通し現れる見過ごされている細部からも注目して小津作品を解釈しようという試みの元に本著は執筆されています。

この見過ごされた細部を本著では主題論的な体系と呼び、蓮實氏の批評は始まるのでした。

そこにはドナルド・リチーの『小津安二郎の美学』などの名著に対する挑戦でもあったわけです。

 なぜこのようなことを今更気づいたかというと、先日『小早川家の秋』を鑑賞している際に私が最も印象に残っているとあるショットがあります。

それは浪花千栄子が縁側を雑巾で掃除をしているロングテイクのワンショットです。

なぜ私がこのワンショットにここまで心を惹かれるか考えると、雑巾で掃除をしている人をまじまじと眺めたことなど今までになかったからです。

雑巾がけをする人を1分近くも眺めるという偶然の経験に出会ったことが私の『小早川家の秋』で得たかけがえのない体験と言えます。

またこの瞬間に私は現実と乖離した時間の中に身を置ける贅沢な体験をできるのです。

しかし、私は以前観たときにはこのワンショットを見逃していたということになります。

つまり私は細部までしっかりと観てはいなかったわけです。

 蓮實氏は細部まで映画を見つめ自分の中で体系化できる批評の巨人であることを再認識した次第です。

ただ私はドナルド・リチーの著書の方がはるかに親切で分かりやすく、蓮實氏の『監督 小津安二郎』はちょっと不親切すぎると思っています。

大体小津作品の初期作から晩年の作品まで観てリチーやシュレーダーの著書まで読んでいる等の要求水準の高さを読者が満たしていることを前提で書かれた著作を小津安二郎の入門書!のように喧伝するのも悪い。

そんな批評の巨人の肩の上に乗って観れないゴダール作品を観れるのが『ゴダール革命』という優れたゴダール作品に関する蓮實氏の著書となります。

ジャン=リュック・ゴダール蓮實重彦氏は通底した価値感を共有した者同士で、片方はカメラを構えもう一方はペンを持ちフランスと日本で映画という芸術に向き合った存在です。

通底した価値感とは、この二人は主流とは袂を分かつ求道者であり皆とは違う方向を向いている厄介者であることを自覚しつつも尚主流とは合流しようとする素振りすら見せない優雅さを纏う価値感です。

そのような同胞に対する称賛と激励に溢れた本書の優れた点は80年代以降のゴダール作品評で最高潮を迎えます。

80年代以降のゴダール作品で観ることが困難な『ゴダールリア王』についても言及されています。

 ゴダール監督は60年代の低予算早撮りで人生の不条理さと無意味さを強調するようなストーリーを鮮やかな原色に彩られた映像を用い描いてくれましたが、80年代以降は「ええ・・・なにこれ」という印象が先行する作品が目立つようになります。

といっても私が観たことがあるのは『探偵』『決別』『ノートル・ミュジーク』『さらば、愛の言葉よ』『イメージの本』だけなので未見の作品が多々あります。

これらの作品を観て思ったことは、ゴダール監督の関心が偶然の美を発見することに向けられていったことを感じるのみでした。

そこには作者すら意図していない偶然の美を表現の中に落とし込め人々に伝達できるようになった映像という20世紀の芸術表現に対する姿勢のようにも思えます。

 音楽を奏でようと思えば楽器の演奏技術を習得せねばなりません。

例えばヴァイオリンやピアノであれば幼少時に習得を始め20歳前後でしっかりとした技術の基盤を作り、やっとの思いで表現が可能になります。

これは絵画でも同様できっちりとデッサンなどの基礎技術を習得しなければ自己の表現を発露できないものです。

その中で偶然性を表現に落とし込むのは途方もない時間がかかるでしょう。

ただ、このような技術の習得をすっ飛ばして優れた表現を行う人も極稀にいますが彼らは特殊な例です。

その点、映像はカメラを使えば誰でも映像が撮れます。

これはヴァイオリンでスケールを弾いたり絵筆で陰影を描き込むよりははるかに容易いことです。

そのような誰でも使える簡便な器械を使う中で重視されるのが表現にあり、というより表現と技術が融合してしまい表現者の感性がそこには写し取られてしまいます。

そして器械の利便性の向上に伴い表現者は立ち向かわねばなりません。

 その中でゴダール監督は絶えずカメラを手にし自己の表現と感性を研磨し続けた末に彼は編集台に座り編集の中で偶然性を発見する余暇が生まれたのが80年代以降なのだと思います。

そのような映像と音響に加え照明や編集の偶然の出会いを蓮實氏の文章によって観ることが可能になるのが本著であると思います。

映像の中には偶然写し取られた俳優の表情や身体表現などの人工性と背景に映る景色などの自然性が偶然調和する瞬間もあり、おそらく優れたショットとはそれらの総合が現れているものなのでしょう。

それを得るにはどれだけカメラを構えていないといけないのか

つい考えてしまいます。