ののの・ド・メモワール

その日観た映画や本や音楽の感想を綴ったりしています

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最近お茶漬けを食べていません『お茶漬けの味』

お茶漬けの味

 蓮實さんの著書『監督・小津安二郎』を読んでいると説話論的という謎のワードが頻出しググってみてもよく分からず、とりあえずこのワードのことは保留し読み進めていくときっとナラティブみたいな意味なのだろうと独自解釈することにしました。

 小津作品のナラティブ性は脚本家の野田高梧と組んだ晩年の作品に強く現れている気がします。

 それではストーリーとナラティブの違いとは私にとって何なのか?

ストーリーは著者本人がナラティブでは登場人物達が物語を紡ぎ語っているものと私は思っています。

 前者だと登場人物の中に主要な人物が物語を進めその周辺の人々は脇役ということになり、後者ではその枠組が非常に曖昧であり登場人物達ほぼ全てに焦点が当たり彼らそれぞれの物語があるものだと思っています。

 ストーリーの場合だと要約することが可能ですが、ナラティブの場合だとなかなかそうはいきません。

 そんなことを考えながら『お茶漬けの味』を観ました。

今作は『麦秋』の翌年『東京物語』の前年に製作された名作に挟まれた佳作という立ち位置で影の薄い存在だと思います。

でも私は小津監督の構図至上主義が少々薄まり内容も緩い作品なので結構好きです。

 そして前年まで娘の婚約が主題の作品を小津監督が手掛けていたので本作もその系統だろうと思っていたら、その予想は間違っていました。

この作品が佐竹夫妻の物語であることに気づくのは私の場合では作品のかなり後半でした。

 今作はお見合い結婚で結ばれ、育った環境や価値観の違いなどで夫婦仲がギクシャクしている中で、佐分利信演じる茂吉が海外出張する前に木暮実千代演じる妙子と夜食にお茶漬けを食べて夫婦の溝を食事をすることで修復するシークエンスから妙子の姪・節子がデートするシーンで物語が閉じます。

最初に観た時はすごく不思議な終わり方に思えてなりませんでした。

晩年の小津作品の特徴だと個人的に思っている登場人物たちの物語がそれぞれ網状に語られる傾向が今作ではかなり顕著であると思いました。

『晩春』や『東京物語』だと原節子の存在感のためにその並列に存在する物語を意識することはあまりないのですが。

 なので私は登場人物たちは全員が並列的に語り手として本作に現れていると思いながら再度観てみると大変ユーモアに溢れた作品です。

特に佐分利信が素晴らしいです。

彼の外にいる時のいかにもエリートという風格から家庭でそのヴェールを脱ぎ質素に暮らす姿はなんとも愛らしいです。

彼は赤いやかんで有名な『彼岸花』でも似たような役柄で出演していて、笠智衆とはまた違った父親像を添えています。

 印象に残るのは節子がお見合いをすっぽかして茂吉たちと共に競輪やパチンコへ行って遊ぶ小津作品の自由さを象徴しているシークエンスです。

競輪やパチンコへ行く女性をこのように瑞々しく撮れる人は現代にもいるのだろうかと思ってしまいます。

 もしかしたら70年の月日でパチンコに暗示的意味が降り積もってしまったのか

またパチンコ店を営む店主・平山役で笠智衆が出演しています。

笠智衆が登場した時に私はヴィム・ヴェンダースが『東京画』を撮る前に本作を観たのだろうとなと思いました。

 この作品ではロケ撮影が多く当時の東京の様子がよく映ります。

その中でもパチンコは何かを示しているように登場人物たちによって言及されます。

パチンコについて妙子の友人・アヤは「あれやった?ぱちんじゃらじゃら」とパチンコ玉を弾くジェスチャーと共に楽しそうに語ったり、茂吉は「大勢の中で一人になれる。幸福な孤独だな」と言ったり節子はハマってものすごく勝ったことを茂吉に伝えたりとその存在は顔を出します。

ただ平山は「こんなもんが流行るのはいかんです。」とパチンコ店を開いたことを後悔したりと多分ヴィム・ヴェンダースも気になって仕方なかったのでしょう。

 ロケ撮影では皇居周辺の様子も捉えられ私は空の広さに驚きました。

ここからどんどんと都心には超高層ビルが林立し見上げると必ずビルが見下してくるようになりますが、都心から離れると東京の本来の姿が見えてきて私はそちらの東京の方が好きです。