・山椒魚 井伏鱒二
岩屋の中で過ごしていた山椒魚は自分の体が成長したことに気づかず、外に出られなくなり岩屋に迷い込んできた蛙をその岩屋に閉じ込めてしまう有名でユーモラスな短編。
岩屋と山椒魚と蛙は読み手によって様々な解釈ができる暗示めいた存在で、もしかしたらこの要素から高校の教材に選ばれているのかもしれませんが、私は現代文で山椒魚を習った記憶がありません。
自分ではどうしようもない環境の中に置かれてしまった山椒魚とそれに巻き込まれてしまった蛙は最後に和解をします。
この時の蛙は文学的な表現で「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と一言。
蛙は山椒魚も同様にこの岩屋の中に閉じ込められ苦しんでいることを知り、自分よりはるかに大きい山椒魚がどうしようもできないのであれば自分にできることがないと以前から諦念を抱いていたことが伺い知れます。
岩屋に閉じ込めた元凶である山椒魚に対して最初こそ怒りを持って接していましたが、自分の運命が間近に迫ると山椒魚が悪いのではないと許す寛大な精神で接します。
『諦念』と『寛大さ』が老成であると蛙が物語っているように思えました。
山椒魚も最初はこの状況から逃れようと必死に考え遂に岩屋から出ることを決心をします。
この決心するときに「いつまでも考え込んでいるほど愚かなことはないではないか」という一文が現れ、胸に刺さります。
しかし結果は上手くいかずに岩屋の中に閉じ込められたままの山椒魚は岩屋の外に怒りを向けるようになり蛙がその犠牲者になってしまいました。
岩屋の出口がもう少し広ければ山椒魚と蛙は自由になれるわけですが、その術がないと気づいたときに希望を持つなど可能なのでしょうか
この作品には希望を持ち続けることがいかに難しく、全てを諦め許すことも同様に難しいことを示唆しているように思います。