ジェラール・フィリップ主演マルセル・カルネ監督の『ジュリエット、あるいは夢の鍵』を観ました。
ジェラール・フィリップ演じる囚人のミシェルが眠りに落ちると目の前には見知らぬ村が現れます。
そこは記憶がない人々が集う忘却の国だと分かり、彼はそこで恋人のジュリエットを探すというストーリーです。
シュールレアリスムでメルヘンチックな作品で昔のディズニー映画を思い起こすような作品でした。
この作品の公開が1951年なのでむしろ元ネタといった方がいいかもしれませんが。
ミシェルが眠りに落ち雑居房の扉から光が漏れ、外に出ると森の中に通じている演出は「さすがシュールレアリスムを生んだ国の映画だな」と思いました。
そして小高い丘に見える村に向かいミシェルは歩き出し、道中で出会ったその村の村人と思われる人々に村の名前を尋ねますが誰も知りません。
ミシェルは記憶がない村人たちに翻弄され、果たしてジュリエットは見つかるのかと思いきや、しれっとジュリエットが現れます。
ジュリエットは元からミシェルのそばにいて何かをきっかけに姿が見えるようになったとしか思えないような現れ方でした。
ここからジュリエットは阿部寛さんにそっくりのイヴ・ロベール*1演じる村の外れにある城の城主に誘拐されてしまったりとほとんど昔のディズニー映画な展開になります。
この城と城主のモデルは作中で言及され、オペラ『青ひげ公の城』の原作でフランスの童話『ラ・バルブ・ブル』のようです。
童話がモチーフならディズニーと似ても仕方がないと思いますが、私はこういうおとぎ話をモチーフにしている映画があまり好きではなく、正直青ひげ公が出てきてからは紋切り型のストーリーで途中からは退屈でした。
がしかし、この作品がただのジェラール・フィリップのご尊顔を拝むだけの映画にならなかったのはミシェルが目覚め忘却の国から現実に戻ってからのシークエンスにある私は思います。
半分くらい宙に浮いてしまった観客の興味を最後にぐっと作品に引き寄せるのはもしかしてフランス映画の伝統なのかと思ってしまいます。
そして童話ベースのストーリーが実はこの現実のストーリーの対比であったことにもここで気づくことになります。
ディズニーの脚本家は童話のストーリーに従順なのに対して、本作の脚本家のジョルジュ・ヌヴォーは一捻り加えているのはアメリカとフランスの文化の違いを少しだけ垣間見たような気がしました。
観客の対象も異なるから単純に比較はできないと思いますが、そう思いました。
*1:ジャン=ロジェ・コシモンでした