ジャック・リヴェット監督作の『美しき諍い女(いさかいめ)』を観ました。
南フランスの田舎の古城にて隠居同然の生活を送る画家・フレンホーフェルと彼のパートナー・リズの元に新進画家・ニコラと彼の恋人・マリアンヌが訪れ、フレンホーフェルは幻の自作『美しき諍い女』をマリアンヌをモデルに完成させようとするストーリーです。
この作品、上映時間が4時間弱あり、「よ、四時間って・・・」と恐れ慄いてしまいます。
私は以前に画家とモデルがテーマの映画を観たことがあるのですが、その作品は題名も忘れてしまうほどにつまらなかったので少し身構えつつ観ました。
最初の1時間はマリアンヌたちがニコラのパトロンで美術収集家のポルビュスを介してフレンホーフェルの元を訪れ、古城に滞在する様子が描かれ絵はまだ描かれません。
フレンホーフェルは彼らに会い創作意欲を駆り立てられ『美しき諍い女』を完成させることを誓いますが、専業モデルでもないマリアンヌはほとんど強制的に彼のモデルを務めることになるので全く乗り気ではなく、「そりゃそうだ」と同情します。
ここからの3時間、マリアンヌを演じるエマニュエル・ベアールはほぼヌードで、彼女の役者精神に畏敬の念を抱きます。
アトリエにて2人の創作活動が始まり、まずはポージングを確認しスケッチをしていきます。
アトリエにて画家とモデルがお互いに見つめ合っている様子を見ていると、私は棋戦を見ているような気持ちになりました。
駒の動かし方や居飛車や振り飛車くらいの浅い知識はあれど棋士が何を考え駒を指しているのかは分からない。
しかし、棋戦全体を包む緊張感はひしひしと画面越しに伝わってくる感覚に似ていて、この映画はそういう緊張感を共有する映画だと私は思います。
幾度も筆で塗りつぶしながらスケッチをするフレンホーフェルとポーズを言われるがままに維持するマリアンヌの主従関係は前半部では崩れません。
この関係が崩れるのは後半部にて芸術の境地のような存在にマリアンヌが最初に踏み入れてからです。
ここからフレンホーフェルはマリアンヌに操作されるように絵筆を握り始めます。
彼が求めていた存在はこのようにお互いを補えるような存在であったのだろうと思いました。
彼はマリアンヌのような存在にずっと出会えず、パートナーのリズもそれを担えなかったので絵を描くことを中断していたのでしょう。
こうして2人は芸術の真髄の深みへ進んでいき、彼らは周りの人々との関係に少しずつ溝のようなものが生まれていきます。
マリアンヌとフレンホーフェルが共有している何かにニコラとリズは決して触れることができないもどかしさが画面に漂っています。
そうしていると、ニコラがあまりに南仏に滞在しているので心配になった彼の妹・ジュリエンヌが現れ、ここで初めて彼ら以外の他者が介在します。
彼女はあくまで観察者の役割を担っているようで、それだけ古城の中の雰囲気が普通ではなかったのか彼らの内に入り込もうとはしません。
そして自分が担えなかった役目を突然やってきたマリアンヌが代わりに果たしてる様子を眺めるリズの心境を思うとなんとも言えない気分になります。
全てを犠牲にしてでも美を追求する2人が手掛けた作品から芸術の恐ろしさに私の興味は移っていましたが、ここまで観ると私は「美を追求する2人にはついていけない」と思い、どうしてもリズに感情移入せざるを得ません。
「芸術は何を目指すべきなのか」や「美はどこから生まれるのか」といった哲学的命題の往復書簡を身体とキャンバスを用いて語られる姿を見てしまうとこの疎外感は無視できないものです。
リズはそれを全て読んでしまったのでしょう。
こうして彼らが心血を注ぎ描き完成した『美しき諍い女』はフレンホーフェルの手によってアトリエの壁の中に封印されてしまいます。
これは彼のマリアンヌとリズに対する配慮を感じさせ、彼がまだちゃんと現実に軸足を置いていることを示唆しているように思いました。
しかし若いマリアンヌは果たして現実にまだ留まっているのかは分かりませんが、文学を志す彼女が今後どのような人生を歩むことになったのか気になる作品でした。