フェデリコ・フェリーニ監督作の『8 1/2』を観ました。
本作の主人公で映画監督のグイドは次回作に追われる過労で体を壊し湯治へ赴き現実と幻想の中に身を浸し続ける作品です。
ここまでならなんだか川端康成の『雪国』のような雰囲気ですが、本作ではグイドが次回作を撮らないといけない現実から逃れるように彼の空想が映像に出てきます。
グイドはスーツに縁メガネをかけボルサリーノハットを被りびしっと決まっているまさにイタリアの伊達男です。
スーツはアルマーニなのでしょうか?じゃあメガネはグッチ? とにかくおしゃれです。
ただこのかっこいいグイドの姿がはたして本当のグイドの姿なのか疑問に思ってしまいます。
というのも診断を受けている彼の容姿が記憶の限り撮られていないと思うので私は疑っています。
グイドは医師に勧められた療法のためにミネラルウォーターを汲みに湯治場近くの泉へ出かけると大多数の高齢者がミネラルウォーターを求め大行列をなし機械的に水を汲み上げコップに入れる若い女性たちを捉える一連のシーンはなんともアイロニカルです。
他に大型サウナ施設でムッソリーニのような指導員に番号で指図される湯治場の人々などなかなかフェリーニ監督は皮肉の切れ味が鋭いです。
そして湯治場で出会う様々な女性たちはまるでグイドの頭の中にあるアイディアのメタファーのようにどんどんと登場します。
誰が誰やら途中から分からなくなりました。
芸術家の頭の中を擬似体験しているかのように場面があっちへ飛びこっちへ飛びと節操がありません。
「もう妄想の中で生きたい」と言いたいかのように次から次へと空想を生み出し、その中へ彼が逃れる様子はグイドが次回作を如何に作りたくないかが伝わってきます。
その中でグイドがカトリックの神学校に通っていた少年時代の頃を空想していると思われるシークエンスでは浜辺に住む巨大な女性のダンスを観たことが神父にバレて屈辱的な思いをしたエピソードが出てきます。
おそらくこの巨大な女性は映画のメタファーだったのだろうなと本作を観終わってから思いました。
しかし非情ながら現実はどんどんと迫ってきます。
遂にはあまり関係がよろしくない妻が湯地場に来る始末になり、グイドはますます空想の中に引きこもっていきます。
「嫌だ 現実なんか見たくない!」と遂には女性たちと共に空想の中で籠城しますが、プロデューサーや出資者に急かされいよいよ現実と対峙することになります。
グイドが死ぬほど撮りたくない映画はSF映画でした。
彼は本心では真実を語る映画を撮りたいと切に願っていたのに現実では虚飾にまみれたSFの駄作を撮らないといけない。
現実と理想を上手く折り合いがつけられないグイドは最後に全てを放棄してしまいます。
これはグイド本人の死なのか映画監督としての死なのか
全てを受け入れた後者であってほしいと思います。
芸術家の頭の中はこういう風になっているのだろうなと思う一作でした。