アンドレイ・タルコフスキー監督作『ノスタルジア』を観ました。
といっても以前に観てしかも記事を書いているのですが、以前に書いたものはおおよそ感想からは程遠い代物なのであまり気にせずせっかく4Kで再上映されいるし。
これで以前とはなにか違うことに気づけたら嬉しいものです。
ノスタルジアとは異郷に立ったロシア人を襲う郷愁の念とタルコフスキーは語ったらしいです。
本作の主要人物の詩人ゴルチャロフは名前がアンドレイなのでタルコフスキー自身の自己投影なのだろうと思います。
タルコフスキーがまた初めてロシア圏外で撮った映画で製作国はイタリアそしてロケ地はフィレンツェ*1です。
異国の地に実際に立つロシア人・タルコフスキーの内面を映し出すかのような作品で、そこには俳句の影響を少し感じました。
タルコフスキーは日本の俳句に感銘を受けていたようで、俳句にある自分の心情や内的世界を目に映る外界の中からそれらと同調する断片を切り取り自分と世界の関係を述べる俳句の詩的表現をタルコフスキーは映像の中でそれを行っているように思いました。
私はどちらかといえば異郷の地で故郷を思うノスタルジーとは無縁の人間です。
ただ港町で育ったせいか海を見るとなんとなく地元のことや子供の頃のことが極稀に頭によぎります。
もしかしたら自然の中にあるものに何かの類似を見つけた時にノスタルジーが発生するのかもしれません。
ただこれはタルコフスキーがいうノスタルジアとは全く異なった感情なのだろうけれど、私が本作『ノスタルジア』を観ているときにずっと感じていました。
タルコフスキーの作品には頻繁に水の描写が出てきて本作も多くの水の描写を丹念に描いています。
彼にとって雨や川や温泉など水に関するものはノスタルジアを想起させるものなのでしょう。
詩人ゴルチャロフと映画人タルコフスキー双方のノスタルジアが本作の中に映し出せれているようにも思えます。
ゴルチャロフのノスタルジアは故郷に残した妻や家族のようでモノクロ演出で描かれているようです。
そしてそのノスタルジアに襲われてからまた現実の異郷に適応するまでの懇切丁寧なワンショットワンシーンといわんばかりのロングテイク。
そんな彼は郷愁の念を象徴するかのようなジャーマンシェパードをノスタルジアの世界から連れてきてしまいます。
ショット内時間と現実に流れる時間の隔たりを以前に観たときよりもいっそう強く感じました。
フィレンツェの村でゴルチャロフはドミニコという変な老人に会います。
ドミニコさんは世界に対する自分の責任をずっと感じたために自室に引きこもり人類を救済する思想を形成することに必死になり、その姿は村の人々から気味悪がれ避けられています。
確かに傍目から見たら完全にヤバい奴なのですが賢人の抱える苦悩の大きさのために孤独になってしまったと考えると同情してしまいます。
もしかしてツァラトゥストラがモデルなのでしょうか?
そんな姿に異国の人間であるゴルチャロフは同じ異質な存在としてシンパシーを感じていたのかもしれません。
その後ドミニコさんはカンピドリオ広場にて人々の前で大演説を行い焼身自殺を遂げます。
しかし、その意志はゴルチャロフへ引き継がれ彼はほんの些細な世界救済の儀式を行います。
その儀式はロウソクの炎を広場にある温泉の端から端へ移すという世界の救済とは一切関係なさそうなものです。
世界に対して行える個人の行動は所詮その程度なのかもしれませんという示唆なのか何なのか
ドミニコさんは一人で世界を救済することが到底無理であると最初から分かっていたのでしょう。
必要だったのは協力者であるのは分かっていたけれど誰も手を差し伸べなかったために長い年月を廃屋の中で過ごしていたようにも思います。
故郷や理想へのノスタルジアを求め孤独を抱える人々を詩的なショットで綴った作品だと思いました。