原題の『好きなように生きる:12の描写によるフィルム』が邦題では『女と男のいる舗道』になっている本作。正直邦題の意味はよく分からない。
レコード店で働きながら舞台俳優を目指すアンナ・カリーナ演じるナナについて12編で描かれ、1編が約10分で1時間20分ほどの上映時間です。
ちなみにフランス語でナナ(nana)は若い女や娼婦などの意味がある口語のようで、こちらの作品のナナはエミール・ゾラの『ナナ』から採られたようです。
印象に残っているのは3編にてナナが映画館でサイレント映画『裁かるるジャンヌ』を鑑賞しこの作品の一連のシーンの合間にナナの表情がインサートし涙するシーン。
またナナが手紙を書くシーンでは自分の身長が分からず掌を広げてつま先から頭上まで自分の身長を測るナナが可愛い。
11編では哲学者ブリス・パランとナナがカフェで言葉と思考そして人生について語りあいます。
考えるとは言葉であり、話し合うことが人生であるのかどうか2人は文字通り話し合い別れます。
12編がフェードインし、トーキーからサイレントへ作品はシフトし、あっけない結末を迎えます。
この作品のテーマは映像と言語なのかなと私は思いました。
そう思った理由は最後の11編と12編からと3編での『裁かるるジャンヌ』からです。
ブリス・パランがいうように話すことが考えることならばサイレント映画に映っているものは何なのか
サイレント映画では字幕のショットが合間合間に挟まりストーリーを形作っているけれど、あれは登場人物と作者のどちらが考えていることなのか実験してみようと思い立って12編の中でそれを行っているように思いました。
最初の約1時間はひたすらアンナ・カリーナを撮ることにゴダールは注力しナナの日常を映していきます。
その中で次第にナナは売春をするようになりますが、ナナにとってはレコード店で働くことと差はない様子。
ナナにとっては舞台俳優になるのが目的で金を得るためだけの労働に付加価値なんか必要ないのです。たぶん。
「芸術と美、それが人生」を地で行くナナ、これはナナとゴダールの考えのどちらなのか